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忘れられない二人の先生へ |
学校という場所は残酷だ。特に教師は容赦がない。
友達からの嘲りも、ほとんどは教師発信ではなかったかと感じることがある。
読めない・書けないのに口は立つオレは、さぞかしうっとおしい存在だったんだろう。
ことあるごとにバカにされ、笑われた。
ヒステリックな声、容赦ない体罰。
「はぁ〜」という嘲るような溜息・・・。
教師のそんな姿を見て「ああアイツはアホなんや」「こんなこともでけへんのや」と、周囲の評価が決まっていく。
先生なんて大嫌いだった。
でも、6+3+1の学校生活の中で2人だけ、オレをあきらめないでいてくれた先生がいた。
オレのことを「救いようのないアホ」ではなく認めてくれた先生がいた。
後のめちゃくちゃな日々の中、アルバムも名簿も手紙も全てなくしてしまった。転居と転職を重ねた身には、同窓会の通知ももうとどかない。
それでも、かなうことならこの2人の先生には今も会いたい。
先生たちの愛情や支えを、オレは裏切るような生き方ばかりしてきた。それでも、あの時、自分という存在に価値があるのだと繰り返し教えてくれた2人の先生の言葉は、忘れたことがない。
もしもこの2人の先生に出会っていなかったら?
もっともっと刹那的な人生を送っていたかもしれない。
あのころの激しさなら、何か取り返しのつかない過ちを犯してしまったかもしれない。
もしも今この2人の先生に再開できたら?
きっと涙が出るんだろう。
自分の歩いてきた日々の愚かさを思うのかもしれない。
それでも、ここにたどりつけた。今の自分に「戻る」ことができた。
「先生、ありがとう」そう伝えたい。
今の小さくとも平穏な暮らしを見て、先生たちはなんていうだろう?
オリンピックの有望候補としてもてはやされたこともあるのにと、惜しむだろうか?
いや、きっと喜んでくれると思う。
「優しい顔になった」と微笑んでくれると思う。
あの時に言えなかった思いを、いつか伝えることができたら、本当にそう思う。
小学校5.6年を担任してくれたS先生
オレより2.3歳下のお子さんがいた、既婚の女性の先生だった。
5回目の転校。5校目の小学校。
最初は「tora君すごいねー」と寄ってきていた友達も、どうせすぐに「えっ、こんなかんたんなこともできないの?」と手のひらを反していくんだろう。
慣れている。いつものこと。
バカにするやつはやっつけてやる。体の大きなオレはささくれ立っていた。
当然、教師はその急先鋒のはずだった。先生に何も期待なんかしていなかった。
でもS先生は違っていた。
オレが読み書きできないことは、前の学校から伝わっていたのか、そのあたりはわからないが顔から火が出るような恥ずかしい思いをさせられた覚えがない。
もちろん、わからないことはたくさんある。それでも、それまでだったら嫌な顔やため息や嫌味が帰ってきた場面で、先生はさりげなく当たり前のように「○○よ〜」と優しい声をかけてくれた。
前のページでも書いたが95点のテスト、力学の話、
先生の言葉からは、「アンタはアホやないで」というメッセージを感じた。
S先生はオレを信じてくれていると実感できた。
今のようにLDについての情報がある時代じゃない。ほぼ全ての教師が「どうしようもないアホ」「字も覚えられないくせに生意気でうそつきの嫌なガキ」とオレを評価する中、それが当たり前の中で、S先生は「この子はわかってるんとちゃうかな?」と思ってくれたんじゃないかと思う。95点のテストの時もそうだが「この子にできる方法」でオレの力を図ってくれていたように思う。
オレが他の子よりできることがあると、「字も書けへんくせに」「やりたいことだけはするんやね」というのがそれまでの教師の反応。時には褒められるどころか叩かれた「そんなことより勉強しろ」と。先生なんてそんなもんだと思ってた。
S先生は「すごい!」と言ってくれた「tora君先生よりできるねぇ」と褒めてくれたこともある。今冷静に振り返れば、オレが得意なこととオレが字が覚えられないことは関係ないのに、それまではみな「字が覚えられない」を前提に、優先してオレを評価していた。普通なら褒めてもらえることをしても「そんなことより・・」がついてくる。
S先生は、普通に褒めてくれたんだと思う。でも、あまりにもそんな経験が少なかったから、とまどった。でも、心の底からうれしかった。もう30年以上前の話なのに、今も先生の言葉を繰り返し思い出すほどに。オレは認めてもらえたことが宝物のように嬉しかった。
でも、素直になれなかった。
95点のテストも一回だけ。あとはオレが断った。
本当はもっとしたかった。もしかしたら100点だってとれたかもしれない。
でも、先生の支えが「当たり前じゃないこと」で「ずるいこと」だと友達や母親が思うことがつらかった。できなくても「同じように」しなければいけないんだと思っていた。
ディスレクシアのことを知って、「目の悪い人に眼鏡がいるように、学び方の特徴にあった方法がいるんだよ」と聞いた時、S先生を思った。先生は、オレに眼鏡を渡してくれようとしたんだと思う。でも、その眼鏡は珍しくて、誰もかけていなくて、かけていることは恥ずかしいことだという意識が、自分にも周りにもあった。だから受け入れられなかった。
眼鏡のように「当たり前のこと」として受け入れられていたら、どんなに幸せだっただろう。
「当たり前のこと」として周りにも受け入れてもらっていたら、どんなに安心しただろう。
後悔や口惜しさは消えない。
でも、そんな時代にS先生がいてくれたこと。S先生に出会えたこと。S先生がしてくれたことを、ただただありがたいと、今思う。
S先生に会ったら聞いてみたい。
先生はどうしてオレをアホ扱いしなかったのか。
読み書きのできない高学年であるオレをどう見ていたのか。
そして、心からお礼が言いたい。
先生に出会えた5.6年は、唯一教室にいて楽しい時間だった。
授業を「おもしろい」と思って聞いていても、誰にも笑われなかった。
先生、今も覚えています。
本当にありがとうございます。
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中学の陸上部の監督だったY先生
札付きの不良になっていった、中学時代。
競って愚かなことをしていた。
当時はやっていたラッタッタというバイクを、「誰が一番盗ってこれるか」に夢中になったこともあった。それも人気のないところに置いてあるものではなく、いかに堂々と、周囲を恐れることなく盗ってこれるかに価値を見出していた。思い出しても、なんであんなことをしていたのか、書いていて恥ずかしい。
もしかしたら、こつこつためて買った宝物だったかもしれない。
もしかしたら、足が不自由で、移動に必要なものだったのかもしれない。
盗まれたことで、仕事を首になった人もいたかもしれない。
今ならわかる。自分の愚行の向こうにたくさんの人が困っていたことを。でも、当時は思いもしなかった。ただその瞬間の力比べに必死だった。
陸上を始めたのも「誰よりも遠くへとべる」というのが魅力だった。
思うように、見たように体が自由に動いたあのころ、周囲が目を丸くするのが痛快だった。
いつもはオレみたいな不良とは目を合わせようともしない校長や教頭が、表彰式や陸連の偉い人が来ているときにはものすごい笑顔でオレをほめるのも滑稽だった。
運動には自信があったが、それでもあそこまでのめりこんで記録を挙げられたのは、Y先生がいたからだ。
当時Y先生は自分も現役の選手で、体育大学を出たばかりだった。「根性」が幅を利かせる体育会系の教師の中で、Y先生は違っていた。
「いいか、遠くにとぶためにはスピードが必要なんだ。そのためにはこの筋肉が強くならないといけない。でもここっちの筋肉がつきすぎるとバランスが悪くなる。だからこんな運動をして細くてしなやかな筋肉にすんねん」
「いいか、シザースは走ってきたそののままの力が自然に流れている動きやねん。お前のはかっこだけ。手を振り回しているだけや。走っているままの力が上に向かうために手が反動になんねん。砲丸投げややり投げは、手から離れた瞬間にどれだけとぶかが決まってんねん。まあ風の力はかかるけどな。でもな、人間は違うねん。踏み切った後、体の動きで距離をのばせんねん」
面白かった。納得できた。
無意識に動かしていた体を、考えながら見直していく。
「本当だ」「すげぇ」
Y先生との練習には学びがあった。
オレは、学ぶことに飢えていたんだと思う。新しい知識が、自分の体を通して入ってくる。読み書きでなく、動くことで理解が広がっていく。たまらなくおもしろかった。
Y先生は「お前にはわからへんやろ」とバカにしたり説明をはしょったりすることなく、繰り返し繰り返し、根気よく教えてくれた。
オレも応えた。記録は面白いように伸びていった。
オレはY先生を信頼していたし、先生もオレを信じてくれていたと思う。
あのころ、ひたすら「どうやったら重力から解放されるのか」を考え続けていた。
自分の体のどこにどう力を入れたらどう動くのか。
どんなタイミングでどんな角度でとべば、一番遠くにとべるのか。
ヒントを自分で見つけ出してY先生に質問する。するとすぐにこたえが返ってきた。「よっしゃ、ためしてみるか」となることもあった。
考えて聞いてまた考えて、試して修正してまた考えて。
やってみて見直してまた考えて。
そんなすべてが面白かった。
それでも、国語や数学、英語の授業はある。
陸上で満たされる時間は、わずかだ。
陸上へのめりこむ自分と相反するように、荒れる自分もエスカレートしていった。
Y先生は、何度も警察に迎えに来てくれた。
オレが喧嘩をしないように、おくりむかえまでしてくれたこともある。
きっと、選手としてのオレ、陸上の弟子としてのオレを大事に思ってくれてのことだろう。
わかっていたし、ありがたかった。
親の言うことより、Y先生の言葉が響いていた。
それでも荒れることをやめられなかった。
高校の「根性最優先」の練習に納得できなくて、自分の体がどんどん動かなくなっていくようで不安で、何度も何度も夜中に電話したこともあった。
後に高校を飛び出したオレを探して、中学の教師であるY先生が訪ねてきてくれたこともあった。
Y先生。ごめんな。
あんなにいっぱい教えてもらったのに、オレ、陸上大好きやったのに。
オレだってあきらめたくなかった。でも、耐えられへんかってん。
Y先生に会ったら、今の仕事を見てもらいたい。
考えて・試して・修正してやってみて見直す。
先生に教えてもらったことや。
学校時代、一番いい授業をしてもらったんだと思ってる。
あんなにわくわくしたことってない。
オレ、学ぶこと好きなんや、考えること好きなんやって、今はわかる。
暴力でなく、アホらしい競い合いでなく、
正当な努力で示せる力が自分にあることを教えてもらった。
Y先生、本当にありがとう。
期待に応えられなくて、ごめんやで。
でも、オレがんばってやってるで。
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