|
母への思い |
わかってもらいたいのに、わかってもらえなかった人
母への思いは、複雑だ。今も整理できない。
もしもここまで全部読んでくれた人がいたなら、「親は何をしていたんだ」と思うかもしれない。自分で書いていても、時折出てくる母の姿は、いつも自分を責める側にいた。
荒れていくオレの親でいることは、さぞかし大変だっただろう。
オレの知らない苦労ももちろんあったんだろう。
でも、オレは最初から荒れていたわけではない。
周囲からかわいがられる、愛想のいい子だった。
「それは弱さだ」と人は言うかもしれない。そうかもしれないが、オレは荒れた。
親のせいにするような年でもないし、自分の人生の責任は自分にあるともちろんわかっている。
それでも親には、親だからこその思いがある。
誰よりもわかってほしい人。でも、どこまでいってもわかってもらえなかった人。それが母なのかもしれない。
4歳の頃、両親は離婚。
姉と二人、母のもとで育った。
小学校を5回変わった。
そのころの母は、生きていくのに必死だったと思う。
母は芸事で身を立てたいと願っていて、その正念場の時期でもあったのだろう。
生活のための仕事と稽古、昼夜なく、出かけていた。
物心つくころには、姉と二人でいることが多かった。
「勉強しいや」とはよく言われたが、勉強を見てくれたり、教えてもらった記憶はない。
学校の行事にも、他の家のように来てくれた覚えがない。忙しかったのかもしれないし、オレが問題児だったのが恥ずかしかったのかもしれない。
それでも学校からうるさく言われたのか、2年生の頃家庭教師をつけてくれたことがある。家庭教師と言ってもバイトの女子大生だ。わからないからやりたくないオレが茶化したり逃げ回ったりするのに耐えきれず、泣きだしてやめてしまった。「ほんまにオマエは」と言われたと思うが、それっきり、オレの勉強をどうにかしようとすることはなかった。
「お母ちゃん、tora、こんなこともできへんねんで」姉がそう話しても、その場限りの言い訳をするオレに、母にはそれが嘘だとわかっていたのかもしれないが、「そうか」「お姉ちゃん、みたってな」と言うだけで出かけて行った。
むしろ、教師以上に「怠けている」「ごまかしてばかりのうそつき」「大人をなめている」と思っていたのではないかと思う。
子どもから見ても当時の母はきれいで、自慢の母親だった。「いやあ、tora君のお母さんきれいやなあ」と言われて、得意になっていた。親を嫌いな子どもはいない。オレだってそうだった。でも母の一番は自分ではないと、いつも感じていた。
あれはいつだったか。小学校に入ってすぐの頃だと思う。オレが何か悪さをしたのか口答えをしたのか、とにかく母にはどうしても許せないほど気に入らないことをしたのだろう。布団たたきで嫌というほど打ち据えられたことがある。痛みで気が遠くなりそうだったし、怖かった。今でも鮮明に覚えている。普通の子なら泣いて謝るのだろう。でもオレは、どうしても納得できなかった。何が納得できなかったのかはもう思い出せないが、痛みにふらふらしながら「死ぬまでたたけや!」と母親をにらみつけたことは覚えている。母は「あんたは怖い子や!」と吐き捨てた。
大人になってから、母にこの話をしたことがある。打ち下ろされる布団たたきの形や、体を打つ鈍い音まで覚えているのに「そんなことするわけないやんか。子どもにそんなことするなんて恐ろしい」と、母は認めてくれなかった。
オレにとっては忘れられない記憶だが、母にとっては記憶の隅にもない出来事なんだと、打ちのめされた。
悪さをして学校に呼び出される、警察に呼び出される。他の子の親は子どもを叱りつけながらも「tora君に言われたからじゃないの?」と我が子の責任を回避しようとしていた。でも、うちは違う。「○○君、うちのtoraにそそのかされたんでしょ?もうこの子と付き合わんでええからね」どんな時も、何も聞かず、主犯はオレだと確信していた。
「あんたを殺して私も死ぬ!」と包丁を持って警察中を追い回されたこともあった。オレの行く末を心配して?いや、どうしても、今でも、それは感じられない。自分の生活や芸事が脅かされると思ったんだろう。事実はわからないが、そう感じてしまうこと自体が、悲しいが・・・。
「忙しいから」と引き取りに来てくれない母親の代わりに、Y先生が警察まで迎えに来てくれたこともある。
屋根裏に悪仲間が集まってシンナーを吸っていても、見ないふりだった。
それでも、陸上で成績を出すと、「この子はすごいねんで。○○大会で優勝したんよ」と知り合いに自慢していた。高校生の時に、小学校に呼んでもらった時と同じ違和感と悲しさがあった。「オレが悪いヤツやって知ってるくせに」「なんでこんな時ばっかり言うねん」「オレはおかんの見栄はりの道具とちゃうぞ」褒められているのに、たまらなく嫌だった。
オレが苦しんでいても、悩んでいても、「あんたが悪い」と言い「勉強せえへんからや」とつきはなすのに、こんな時ばかり・・・。
今まで何度もこの思いはくり返してきている。
若くして破産して逃げ回っていた10年近く。
母はオレという息子がいることを周囲に言わなかったらしい。
今の妻と一緒になり、落ち着いて生活できるようになって、初めて「息子が・・」と話すので、「息子さんいたん?娘さんだけだと思ってた」という人もいたと、後に聞いた。「やっと息子の話ができるようになった」とほほ笑む母親。オレはなんと答えたらいいのか、わからなくなる。
字が覚えられないオレ。
勉強ができないオレ。
悪さをするオレ。
借金をして逃げたオレ。
には興味のない母親。
「あんたのしりぬぐいをどれだけしてきたか」と語る母親。
陸上で活躍するオレ。
自慢できるオレ。
母の虚栄心を満たすオレだけが受け入れてもらえる。
ディスレクシアを知ってすぐのころ、母に話したことがある。誰よりも母にわかってほしかったんだろう。母から返ってきたのは「そんなバカなことない。あんたは怠けていただけや。」子どもの頃は言えなかった、どんなに文字が入ってこなかったかを訴えても、「障害なんてあるわけないやんか」と取り合ってもらえなかった。
たまらなく悲しかった。
オレが子どもの頃の母親が、LDについて知らないのは当たり前だ。でも、読めない書けないことに苦しんでいるオレには気づいていたはずだ。それでも、手をさしのべてくれることはなかった。今も、いまさら何をしてほしいわけではない。ただ、オレは怠けていたわけではないこと、本当に文字が入らなくて苦労してきたことを、誰でもない、母にはわかってほしかった。
ディスレクシアを知り、ネットで情報を片っ端から読んでいたころ、我が子の苦しむ姿に「何かおかしい」「この子はなぜこんなに苦しんでいるのか」と必死になってきた母親のブログをいくつも読んだ。不謹慎なのはわかっているが、うらやましいと思った。ああ、この子には味方がおんねんな。一番わかってほしい人がわかってくれてんねんなと。
母に対して冷めた気持ちでいる自分が悲しい。
この年になっても母に優しくなれない自分が情けない。
オレには何かが足りないのかもしれない。
50前になってなお、何かに餓えているのかもしれない。
自分にそんなあたたかな言葉を愛情をくれたのは、伯母だった。
小さいころから「toraはかしこいなあ。ええ子やなあ」とかわいがってくれた。伯母のところは女の子ばかりだったこともあったからか、本当にかわいがってくれた。
従姉妹はみんな成績のいい子だった。同じ年頃だったが、オレが文字が覚えられないことをからかわれたようなことは一度もない。成績のいい従姉妹と0点しかとれないオレ。それでも伯母は「toraはかしこいで」と言ってくれた。文字が覚えられないことでさえ、「文字が覚えられへんのがなんやねん。アンタわかっているやない。理解できるやない。アンタはかしこいで」とくり返してくれた。
「かしこい」と言ってくれる言葉を鵜呑みにするには、あまりにもしんどい学校生活だったが、伯母の言葉は、支えになった。「わかっても書けなければわかっていないと同じ評価なんだ」と思い知らされていた当時、「わかっている」という部分に評価をくれたのは、伯母とS先生だけだった。
「読み書きができなければ全部ダメ」というメッセージの中で育った自分が、ああ、オレは「全部だめ」なわけじゃないんだなあと思えたのは、伯母の存在が大きかった。
大人になって、事業が成功した時も失敗して逃げ回っていたときも、いつも伯母はにこにこむかえてくれた。そして、オレがどんな状態でも「toraはええこやで。かしこいで」とくり返してくれた。
数年前、伯母の訃報を聞いたときは、涙が本当に止まらなかった。大人になってからは、数えるほどしかあっていなかったが、それでも、いつでも、いつまでも、大切な人だった。落ち着いて暮らせるようになって、やっとこの数年は年賀状が送れるようになった。伯母はオレからの便りを、とても喜んで何度も読み返していたと、お葬式で従姉妹から聞かされた。そんな伯母がこの世にもういない、「toraはかしこいねんで」と言って頭をなでてくれた優しい人に、もう会えない。そう思うと涙があふれた。今、従姉妹にもらった伯母のスナップを、寝室と玄関に置いている。
今のオレは、伯母の目にどううつっているのだろう。
伯母ちゃん、オレアホやなかったんやて。伯母ちゃん、オレがんばってんで。
きっと「toraはえらいなあ。がんばってるなあ」とほほ笑んでくれるだろう。
|
|
|
|