成人ディスレクシアの独り言 本文へジャンプ
夢をあきらめた日〜高校時代
名前しか書けなかった受験の果てに

中学時代、悪行も重ねていたが、陸上の成績と自分を評価してくれたY先生の口ぞえも有り、スポーツの特待生として高校へ入学した。

「名前を書けば大丈夫だから」と言われて臨んだ入試。
本当に名前だけ書いて出した。結果は「合格」。
はしゃぐ母親をしり目に、気持ちはどんどんさめていった。
「だってオレ、名前しか書いてへんねんで」「入試ちゃうやん」
もちろんまともに試験が受けられない自分だということぐらいわかっていた。それでも、0点を何百回もとったことがあっても、複雑な思いだった。自分は高校に行ける学力などないのだ、そう思い知らされた気分だった。

高校へ入学して直ぐのころ、陸上競技で活躍していた自分を小学生5.6年の担任、S先生が母校に招待してくれた事がある。
学校生活の中に光をくれた唯一の先生。「tora君はよくわかっているよ」と言ってくれて信じてくれた唯一の先生。嬉しくて勇んで出かけた。

母校へ行くと、校庭に子ども達が集められていた。朝礼台が砂場の横に置かれ、子どもたちの前で紹介された。「toraさんはこの学校の卒業生で、高校生なのに走り幅跳びオリンピックの標準記録の7メートル45センチを超える記録を持つ優秀な選手です。」S先生の弾んだ声。先生は、純粋にオレの活躍を誇らしく思ってくれたのだろう。でも、その声を聴きながら、恥ずかしくて逃げ出したくなった。「なんでこんなところに来たんだろう」と激しく後悔した。
周囲には、悪さをする自分をどなってどついていた先生もいた。問題児の害虫扱いしていた先生もいた。みんなにこにこしている。気持ちの悪いぐらいに。「アンタら、オレをあんなにばかにしてたやないか」という思い。忘れたかったくやしさがこみあげてくる。それ以上に、S先生の笑顔がつらかった。陸上で成績を残していても、街で暴れて警察のお世話にもなっている札付きのオレ。先生に95点をもらったのに、あれから何も学習できてこなかったオレ。勉強から逃げていたオレ。こんなところで、子ども達のお手本として紹介されていいわけがない。なんでここにきてしまったんだろう・・・。
後でマイクを渡されたが、涙で胸が詰まって何も話せなかった。どんな時でも、誰に対してでも、平気でうそもつけたしその場をごまかすことも誰よりうまかった自分なのに、この時は声も出なかった。
誰かに言われた「跳んでみて」アップも無く冷え切った体が直ぐに動く訳も無いが、朝礼台に居るよりはと、逃げるように助走の準備に入り飛んで見せた。(2歩半のはさみ跳び)その高さと跳躍距離に子供たちも先生たちも驚いた様で、お〜と共に歓声が上がった。
さらに涙が止まらない、「ちくしょう、何でやねん!何でやねん!」結局何も話さないままその場を離れ、職員室に入りS先生と話した。あれこれ話しをしたと思うが、何も覚えていない、ただ、丁寧な大人の扱いを受け、今後の活躍への期待を伝えられた。
大好きな先生に褒められてこんなに感動しているのに、嬉しいはずなのに。なんだろう、自分自身が破壊されたみたいな、やるせないせつない気持ちだった。先生が期待してくれるような輝かしい未来なんて、きっとオレにはない。「立派な大人になれないよ」と言った同級生の言葉の通り、オレはどうしようもないヤツになっていた。こんなオレに期待なんかしてくれるな状態だった。
その日は家に帰ってからも、何で泣いているのかも分からなくなるほど泣いた。30年以上も前の事だが今思い出しても涙が出る。もちろん今は涙の意味は理解しているつもりだ。普段は暴れて威圧してごまかしていた現実を、晴れがましい席で改めて突きつけられた気がしていたんだと思う。

「名前を書くだけ」で合格した高校は、陸上は強いが学力の低い高校だった。当然、不良の集まりだ。力関係が支配する集団。その中で生きて行くには、今まで通りの不良な生き方を続けるしかなかった。
中学での自分の授業態度は最低だったと思うが、実はわくわくしながら聞いていた授業はいくつもあった。新しい知識に心の中で「へぇ〜」と驚いたり「それでか」と納得したり。それを表現することは、不良の仮面がはがれてしまうのでできなかったが。だから最初から授業をさぼることを、実はほとんどしていなかった。興味のないふりをしながらも教室にいて、聞き耳を立てていた。当てられそうになったり、プリントが始まったらやることがないので出て行ったが。
そんなささやかな知識欲も、高校では満たされなかった。
「どうせ聞いてないやろ」と小さい声で早口の先生。スポーツ特待生の集まったオレの科は、校内でも屈指の学力の低さ。誰も授業を聞いていない。大声で「昨日○○高のヤツとけんかして、ぼこぼにしたった」と自慢するやつ。ずっと車の運転のゼスチャーをしているヤツ。授業はBGMにもなっていなかった。
オレも同じように見られていたんだろうが、悲しかった。オレはここしか居場所がなかったんやと思うと、泣きたくなった。
それでも、話が通じないほどの短絡的な連中の中でも、オレほど読み書きができないヤツはいなかった。こんな吹き溜まりのようなところの中でも、オレは最低なんや。その絶望感は、計り知れなかった。
何も勉強しなくていい学校。そんなことは求められていない。だってお前には無理やろ?この場所はオレそう伝え続け、打ちのめしていった。

オレは逃げ出した。
こんなに期待されているのに。
「体育大学の推薦か、陸上部の強い企業か、卒業後は選び放題や」と言われていたが、もうあそこには行けないという思いから抜け出せなかった。

中学から活躍していた自分には、ありとあらゆる強豪校からさそいがあった。でも「ここは跳躍系のいい先生がいるけど、勉強にも厳しいからなあ」と「読み書きができない」ことで候補は減っていった。先生は、少しでもオレの負担にならないように、この高校を選んでくれた。それは厚意だし、実際、当時の学力で勉強の厳しい学校でやって行けたとは思わない。でも、「何も勉強しなくていい学校」にい続けることが、つらくてしょうがなかった。あんなに反抗していながら、自分は中学校に勉強が楽しくて通っていたんだと思い知った。読み書きから解放されたら、どんなに楽になるだろうと夢見ていたが、実際は全ての学ぶ機会がそれとセットに消えていった。もちろん、自力で学ぶ方法はあったのだろう。でも、当時の自分には知る由もなく、それができる自信もなかった。みんなが静かに授業を聞く中で、寝たふりをしながら、足を机の上に放り出しながら、聞き耳を立てていた時間は、迷惑をかけていただろうが、自分には幸せな時間だったんだと思った。

お金も持たず家でした。16歳の不良が行く場所は極道の事務所、奴らは少年に親切、もちろん下心はあるが、自分にかまってくれる存在は、他にはなかった。
的屋でスイカ売りをして金を稼ぎ、同じような不良を見つけては、そんな、奴らの家をふらふらする事4ヶ月ほど。縁もゆかりもなかった尼崎で生きていたの俺を、あの理解の無い母と、Y先生が探し出して訪ねてきた。
見つかった時、母はだまって、1万円を俺の手の中に押し込んだ。
Y先生は「高校とは話を付けた。いつでも帰れる」と言った。

「とりあえず帰ってくれ」と二人を追い帰した。車を見送りながら、「ああ、もうオレは戻れないんだ」と、言われたことと反対のことを考えていたのを覚えている。

読み書きのできないオレが、「誰よりも優れている」と言われた舞台。オリンピックも期待されていた選手としての道。全てをあきらめたのはこの時だった。