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オレ「オレなりの読み」をどう手に入れたか |
「読めない」が「わかるかも」へ変わっていった道程
扉のページでことわっているように、
このホームページは、オレ1人で作っているわけではない。
オレが書いたり話したりしたことを、妻が文章としては再構成してくれてる。
そんな作業をしている時、妻からこんな質問を受けた。
「仕事を始めたころまでのあなたの状態って、強烈に「読めない」「書けない」だったんだなあって、よくわかった。でも、少なくとも「読む」ことについては、出会ったころにはそこまで大きな困難には見えなかったし、最近の試験勉強する姿を見ていると、漢字の読み方は違っていても、ある程度正しい意味で読めている気がする。もちろん、自分なりの方法なんだろうけれど、いったい、『いつ、どこで、どうやって』このあなたなりの「読み」を獲得していったの?」
言われてみれば、10代のオレは、
メニューを読むこともままならなかった。
ここに書いてきた数々の場面だけでなく、日常いたるところにある「読む」場面にびくびくしていた。
本当は選びたい、迷いたい場面でも、「読む」ことができないから最初からあきらめていた。
喫茶店に入れば「レイコー」で、うどん屋では「きつねうどん」。
隣の席においしそうなものが運ばれてきて、「あれなんだろう」「食べてみたい」と思っても、それをメニューの中から探して・・・という作業ができない自分には、望むべくもないとあきらめた。
「toraはいっつもきつねうどんだなあ」と言われれば、
「好きやから、毎日でもええねん」と答えた。
本当は、悩みたかったが、できないと確信していた。
最近のファミレスは、メニューに写真がついているから助かる。
「これ」と指させばいい。
写真を見て「どれにしようか」と選べる。
でも、オレの青年期に通った店のメニューに、そんな気の利いたものはなかった。
それが、確かに今はある程度読める。
何度も書いているが、「正しく」ではない。
意味を形につないで読んでいる状態。
でも、ひらがなを拾い読みしていて、意味が全く入ってこなかった10代のオレとは、確かに違う。
「いつ、どこで、どうやって?」
妻の問いに、
待ってくれ、オレそんなことまともに考えたことないと、
自分のことなのに即答できずにいた。
自分が自発的に文字を読んだ、読むことに意欲的に継続して取り組んだというのは、
まずは映画館の字幕だったことは、前にもふれた。
映像の手助けがあり、「黙って読む」ことが許されるその体験は、
楽しく繰り返すことができた。
でも、映画館に通っていたのは、小・中学校のころだ。
何度も何度も繰り返して見て、セリフを空で言えるようになっていたが、
日常の生活や学習でそれを実感したことはない。
学校生活での「読み」「書き」の状態は、先述の通りだし、
高校を飛び出して最初に働いた居酒屋での記憶も、
「読めない」ことで痛めつけられたものが多い。
ではどこで?
蓋をしていた記憶を手繰っていく。
20代のオレが「読む」を獲得していく体験?
「ビデオや!」
叫んだ俺に妻は驚いていた。
24か5のころ、レンタルビデオが爆発的に普及し始めた。
映画好きのオレは、もちろん借りまくった。
今も同じ映画を何度も見るが、このころのオレの映画の見方は、今とは違っていた。
とにかく、何度も何度も巻き戻しながら見た。
映画館では、いくら「くり返してみる」と言っても、その繰り返しは「全編を」だ。
だから「あれ、今のなんだっけ」と思っても、すぐには確認できない。
もう一回見ても、なにせ1本が長いので、「なんだっけ」がたくさんありすぎて、
何度も「あっ、またあそこがわからなかった」が起こる。
それでも画像というヒントがあるので、自分の中で適当に意味をつなげて楽しんでいた。
ところが、ビデオだとその場で見返せるのだ。
「1週間レンタル」で借りた映画を、1週間見続けることなんて、ざらだった。
そもそも巻き戻し巻き戻し見ていると、なかなか1回目が終わらない。
それでも、巻き戻してみるのは楽しかった。
だって、空白や疑問を残さず、映画の全編が楽しめるのだ。
「そうか」「おお」「なるほど」
巻き戻すたびに発見があった。
同じ場面をくり返してみて、字幕を食い入るように読んだ。
巻き戻し巻き戻しで数回見た後、確かめるように通して全編を見た。
何度も巻き戻して読んでいる。
画像の手助けもある。
1週間レンタルを返すころには、頭の中はその映画で一杯になるほどどっぷりつかっていたので、通してみても「すらすら読めた」(気がした)
もちろん意味も分かる。
それがたまらないほど、おもしろかった。
社長業で、イライラぎすぎすしていたころだ。
自分の力を誇示するのに必死な日々。
だからよけいに、1人でビデオを見る時間が大事だった。
「わかった」「おもろい!」という達成感もあった。
そう、ビデオは「1人で見る」に限る。
途中でガチャガチャと何度も巻き戻す見方が、他人から見たら奇異なのはわかっていたし、必死で見ている横でごちゃごちゃ言われたら、訳が分からなくなる。
今は巻き戻してみることはなくなったが、(巻き戻さなくても、だいたいわかるようになった。でも、くり返してみるとやっぱり発見があるので、一度では完全に把握はできていない)横で話されると混乱するのは変わらない。
だから我が家では、映画を見ているオレには妻はあまり話しかけない。
「今映画に集中しているから」と何度か突っぱねたせいだろう。
この20代中盤から後半のころ見た映画の記憶は、実に鮮明で、
20年以上たった今も、細かな部分まで思い出せる。
本当に、本当に必死で見ていたんだと思う。
「なぜそこまでして洋画なの?」と、また妻からの質問。
うーん。考えたことなかったけど、うーん・・・。
まずは、最初に衝撃を受けた映画が「燃えよドラゴン」だったことがあるかな。
ブルースリーの超人的な動きに興奮した。
「こんなすごいヤツがいるんや!」と胸が熱くなった。
大阪の下町の少年だった俺にとって、海外の映画というのは世界を広げてくれるものだった。
それから、オレは日本映画が苦手だったんじゃないかと思う。
「好きな映画は?」と問われれば、
洋画のタイトルは数えきれないほど出てくる。
ストーリーを説明しろと言われたら、かなり長く詳細に語れる。
でも、邦画だと「日本沈没」ぐらいしか出てこない。
オレは常に何か音楽を聴きながら仕事をしているが、
実は、若いころからほとんど洋楽ばかりだ。
日本語もままならないオレにとって、英語がわかるわけもない。
「わかる」から聞いているのではなく、リズムやメロディーが好きだった。
もちろん、邦楽にもいいものはたくさんある。
妻を含め、周りには「洋楽は意味が分からないから苦手。日本語だと意味がわかるから歌詞も入るし」という人が何人もいる。
でも、そこがオレと違う。
オレは、日本語の曲も、聞いているだけではほとんど歌詞が入らない。
仕事柄、ラジオや有線が入っている場所で過ごす時間はたくさんあった。
流行っている曲は、それこそ一日に何度もかかる。
頭の中がそのメロディーで一杯になることも、もちろんある。
でも、歌詞はというと入ってこない。
例えば「こなーゆきぃー」という特徴的なワンフレーズは入る。
でも、その前後はさっぱりだ。
邦楽だと、この「歌詞がわからない」というのが、なんとなく後ろめたい。
洋楽だと、なんというか、純粋にBGMとしてリズムやメロディーが楽しめる。
同じことが映画にも少しあてはまるかもしれない。
あと、もしかしたら一番大事かもしれないこと、
邦画には字幕がない。
「読めない」オレに矛盾する?
そうかもしれない。
でも、正直な思いだ。
字幕がない邦画は、巻き戻しても「わからない」ことがある。
オレは昔から、聞き取りにくい声や速さがある自覚がある。
「あの人の話はわかるが、アイツが言うとさっぱりわからん」みたいな感じ。
浜村淳の声は好きだったな。
なんというか、聞いていて情景が浮かんだ。
でも、そうでない声や話し方も多い。
日常の中では、そういう時はほとんど聞き流している。
昔から「聞いてない」「何度も言ったのに」とよく叱られていたが、
しゃべっている音はしても、それがうまく意味として入らないことはよくあった。
映画でもそれは同じだ。
ところが、字幕のある洋画は、確認の余地があるのだ。
だから洋画を好んだのかもしれないと、今は思う。
1週間かけて1本の映画を見る。
人は笑うかもしれないが、オレには達成感があった。
最後に通してみて、意味がすうっと分かったとき、「おおっ」という驚きもあった。
「読める」のは面白かった。
そんな生活が、何年も続いた。
28歳。
破産して離婚し、仕事からも家庭からも追われた自分は、
それまで周囲に命令して逃れてきた「読む」「書く」という作業と向き合うことになる。
意識していなかったが、今思い返してみるに、
10代の終わりには、まだ壊滅的に「読めない」自分だったのに、
それが破産した20代の終わりには、不自由はあったが、なんとか「読み」については成り立つ状態だった。
その間10年、金の力で学生時代以上に「読む」「書く」ということを避けてきたはずなのに。
タクシーの運転手、ごみ収集車の作業員、建築関係主体の派遣社員、
食べるために職を転々としていったが、「読む」「書く」場面はどこにもついてきた。
新しい仕事をするときは、まずは書面を渡される。
説明もしてくれるが「読んできて」と言われることも多かった。
以前のオレなら、そもそも「読む」ことに取り組みもしなかっただろう。
「はい」と笑顔で答えて、ごみ箱行きだ。
それが、この時期になると、なんとか読んでいた記憶がある。
もちろん「正しく」ではないが。
タクシーに乗っていたころは、特に地名で苦労した。
「上六」は「うえろく」と読む。
「うえろく」と言われれば「わかりました〜」とすぐに向かえる。
「うえろく」と思って「上六」という表示を見れば、
「ああ『うえろく』だ」とわかる。
ところが、地方から出てきたお客さんの中には、
「上六○丁目」と書いた紙を見せて、
「『かみろく』までお願い」という人がいた。
「かみろく」と言われて「上六」の文字を見ると、
もう「うえろく」は浮かんでこない。
「上六」と書かれた紙を見ながら、
「『かみろく?』こんな地名大阪にはないですよ」と言ったことがある。
あとで会社にこっぴどく叱られたが・・・。
そんな「間違い」の体験は、今に至るまで数限りなくある。
試験勉強のページでも書いたように、今でも「正しく」は読めないのが現実だ。
それでも、このころには10代の頃に比べたら格段に「読める」ようになっていた。
30半ばには、どうしてもパソコンがしたくなった。
なぜか「勉強してからでないとできない」という思い込みがあり、
購入前、1年ぐらいパソコンの本を読み続けてた。
毎月届く薄い雑誌を、どこに行くにも持ち歩き、電車の中や出張先の宿で読み続けた。
思えば、自分から何かを読もうと思い立って本を買い、さらにそれを読み切ったのは、この時が初めてかもしれない。
ものすごく時間がかかったが、頑張って読んでいる自分を
「オレも根性が付いたな」と思ってみていた記憶がある。
でも、そうじゃないかもと、今は思う。
もちろん、興味があって知りたいことだったというのは大前提だ。
それでも、10代のオレだったら、読めなかっただろう。
30代には、オレなりに「読める」オレになっていたんだと、今はわかる。
「読める」と言っていいのか。
今と同じで「正しく」ではない。
ただ「読めない」だったのが「わかるかも」になっていたのは確かだ。
1年の勉強を経て、いよいよパソコンを購入。
説明書を読みながら、インターネットに接続して設定もした。
これも今まで意識していなかったが、
「説明書を読んで何かをやり遂げる」というのも初めてだった。
器用で物覚えはいい方だったから、
プラモデルでも自転車やバイクの改造でも、昔からお手の物だったが、
それは全て、誰かがやっているのを「見て」覚えたり、
説明書の「図を見て」予想したりして解決してきた。
横に書いてある説明文は、オレにとっては模様のようなもので、最初から見る気もしなかった。
仲間も多かった、社長になってからは部下もいた。
見てわからないものは、誰かにやらせればすんだ。
ところが、30代半ばのオレは、「派遣のおっさん」だった。
部下はもちろんいないし、新しい仲間はいい意味で対等だった。
命令するような関係ではない。
頼めばやってくれたかもしれないが、
「できるおっさん」で通っていたプライドもあった。
そして何より、オレは説明書を「わかるかも」と思えていた。
何度も読んでは「これのことやな」「ここか」「これをうつすんやな」と納得していけた。
そして回線がつながった。
その時の気持ちは、何と言ったらいいんだろう。
嬉しかったし誇らしかった。
でも、なにより「面白い」と思った記憶が強い。
「読めばわかる」というなら、
できることは無限に広がる気がした。
その後、インターネットにはまっていく。
インターネットは、画像も多いがまず「読む」ことが前提だ。
知りたいことはたくさんあったし、ネットなら誰にも笑われず調べることができる。
オレはネットに夢中になった。
毎日、時間を忘れるほど読みふけった。
指で追いながら、
頭を横に動かしながら。
「読みふける」ことができるというのは、「おもしろいから」だ。
つまり「わかる」からだ。
完璧でなくても、少なくとも「わかるかも」と思えたからだ。
このころになると「読めない」と投げ出すことはなかったと思う。
うん、そうだ。
「いつ、どこで、どうやって」という妻の問いに、ちょっと答えが見えた。
もちろん、年齢を重ねていく中での経験も大きい。
ピンポイントで「これ」と言えるものではないのかもしれない。
それでも、自分の記憶と体験をなぞっていくと、自分なりの答えが見えてくる。
○いつ
・24か5の頃からの4〜5年の間に大きな変化があった。
○どこで
・特別何かを勉強したわけでもないし、どこか学校へ通ったわけでもない。
・しいて言えば「レンタルビデオ屋」と「自室」かな。
○どうやって
・きっかけは、やっぱり映画の字幕だと思う。
・それもレンタルして自宅で見られるようになって、巻き戻しと一旦停止をくり返しながら見られるようになったことが大きい。
・それを、毎日何年も続けた。
・「字の勉強」なんて意識も気負いもなかったが、画像を手掛かりに世界が広がることを楽しみながら、くり返し続けたのが重要だった気がする。
間違えても笑われない。
画像で意味を確かめられる。
わかるまで繰り返すことができる。
洋画は、オレにとって最高の教材だったのかもしれない。
今の状態まで来れたのは、その後のインターネットとの出会いも大きいだろうが、
そもそもインターネットを「面白い」と感じられる自分まで来ていたから、
次のステップが踏めたのだと思う。
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