成人ディスレクシアの独り言 本文へジャンプ
素直に「書きたい」と思える今
「書きたい」と願うことすら、押し殺してきた日々を超えて


このホームページを作って、
何度も何度も自分のこれまでを読み返して、
やっと降ろすことのできた重い荷物が、いくつかある。

その一つが「書きたい」という思いの封印だ。


「オレなあ、書きたいねん」
妻にそう話したのは、ホームページを作ってから5か月目のころだった。
「?書けばいいじゃない?」

「ちゃうねん。ちゃんとした文章が書きたいねん。
お前がちゃっちゃと書いてくれるみたいな、時候の挨拶とか入った、
社会人としてこの年だとかけて当たり前なものが書きたいねん」
「今でも書いてるじゃん?請求書につける文章とかも、自分で作ることもあるじゃない」
「あれは、お前に前に書いてもらったのをちょっと直して作っているだけだし、
それでもものすごく時間がかかるし。
A4一枚に半日近くかかって、ぐったりすることもあるし。
そうじゃなくて、あんなに必死にならなくても、
簡単な文章がさっと書けるようになりたいねん。
メモ、そう、メモが取りたい。
映画とかドラマとかで、会議なんかのシーンだと必ずみんなメモをとってるやんか。
『聞きながらメモをとって考える』あれにすごくあこがれる」


最初、妻にもうまく伝わらなかったようだ。
妻は、オレのこのページを作るサポートをしてくれているし、
オレの読み書きの状況について、誰にも話せなかったこともたくさん話してきている。
だから、オレの状況が一番わかっているはずの相手だ。
それでも、伝わらない思いがある。


確かに今は、パソコンや携帯を使ってメールを打ったり仕事の請求書を作ったりできる。
子どもの頃のような「鉛筆で文字を思い出しながら書く」だけの選択しかなかった頃に比べて、ずいぶん生きやすくなっているのは事実だ。

自営で大工をしている今は、就職したころのように、
「お前この字を書いてみろ」というような理不尽な要求にさらされることもない。
パソコンやスマートフォンを駆使してお客さんと連絡を取り合うオレを、
「字が書けない」とバカにする人もいない。
毎日のように更新して、ブログを1年以上続けたこともある。


「読み間違い」という周囲に見えてしまう問題を抱えたままの「読み」に比べ、
ツールを活用することで「書き」のしんどさは、ずいぶんマシになった。
確かに。


でも、「だからいいじゃん」にならない思いがある。

パソコンを使っても、「文章を書く」という作業には、未だにものすごくエネルギーを使う。
「書きたいことをそのまま打てばいいじゃないか」と人は言うかもしれない。
でも、それができない。

例えば「気づく」という言葉を書きたくても、出てこない。
出てくるのは「築く」「キズク」
「なんかヘン」なのはわかる。
でも、どうすればぼんやり浮かんでいる「気づく」が出てくるかわからない。
違う表現を考える、言い回しを変える。
そうするとまた前後がおかしくなっていく。
「気づく」は、妻に「ちょっと教えて。『気づく』はどうしたら出てくるん?」と聞いた。
「『き』の次は『たちつてとのつに点々でづ』で『く』にすると出るよ」と言われて、
やっと「づ」と「ず」の間違いだったと気が付いた。

「『づ』と『ず』の違いが曖昧なら、試しに書いて変換してみれば」と思う人もいるだろう。
「そこが違う」とわかれば、それもできると思う。
でも、まちがいの種類は、無限なんだ。
そもそも「キヅク」と自分が思っていた「音」が違うかもしれない。
そういう間違いの経験も五万とあるのだ。

話せるのに。
すらすらと言葉は出てくるのに、
文字にしようとすると、たった1文を書くのに、どれだけの時間がかかることか。
おまけに、それだけもがいてもがいて書いても、
サラリと読める文章にはなかなかならない。

仕事関係の文章は、もっぱらネットの文章テンプレートと、
妻に以前書いてもらった添書を少しいじって作成する。

でも、少し内容が込み入ってくると、
「あんなあ、こんな感じのことが書きたいねん」と話して、書いてもらう。

妻は建設関係は素人だ。
言葉1つ1つに?がつく。
「梁って言うのは・・・」「ボイド基礎とは・・・」
書いてもらう内容に必要な言葉を説明するところからだ。
それでも、オレの説明を聞いて彼女は文章にできる。
ということは、ド素人相手でもわかる説明をオレはできるということだ。

それなのに、何も知らない相手にも細かに説明できるオレなのに、
簡単な文章にそれをまとめるということができない。

文章にならないというのは、もしかしたら正確な言い方ではないかもしれない。
文章自体は浮かぶのだ。

でも、そこに入っている「音」が正しくないことがある。⇒聞き取りと読みの問題
表記のルールを間違っていることがある。⇒「きずく」「とうい」

「なんかヘン」はわかるんだ。
だから言い回しを変えて、言い換えて・・・とやっていると、
「あれ、何が書きたかったんだっけ」となる。


これがパソコンや携帯なしだと、さらに問題が大きくなる。
『正しい文字を思い浮かべて、正しく書く』というプロセスが必要になるからだ。

未だに、ひらがなやカタカナでさえ、間違うことがある。
書こうとすることが浮かぶ速さと、文字を浮かべて書く速さがずれてくると、
途中の文字がとんでしまう。
「行きたかった」と書いているつもりなのに、
「行たかた」となってしまうのは、日常茶飯事だ。

間違えないように、抜けないようにと文字に集中すると、
何を書こうとしていたのか、わからなくなる。


だから、書かなかった。
書けるわけないと思っていたし、
書くことはイコール間違うことで、
もたもたと時間をかけて間違った文字や文章を書く自分を、
誰にも見られたくなかった。
間違いだらけの文字を見られたら、
「えっ、コイツこんな年でこんなこともできないの?」とバカにされると確信していた。

「書きたい」と思うことは、自分を惨めにすることだった。
だから「ワープロやパソコンに助けられた」と話すことはあっても、
「書きたい」とは、思うこともなかった。
ずっとタブーだったんだと思う。


でも、このページを作って、読み返して読み返して、
オレは自分を「アホやなかった」「怠けものやなかった」と、やっと思えるようになって、
むくむくとわいてきたのは「書きたい」という思いだった。

読みは、「オレなりで行こう」と切り替えることで、ずいぶん楽になったし、
「オレなり」でも通じることは、2つの資格試験で確信できた。
でも「書き」は・・・
避けて避けてきたこともあって、未だに小学生並みにも至らない。
妻がよくテーブルに書いておいてくれる「サラダが冷蔵庫にあるよ」というような、
日常のちょっとした走り書きすら、メモできない。
いや、したことがない。


それでも、
それなのに、
オレは「書きたい」と思っている。
短くていい、下手でもいい、今「書いとこ」と思ったことを、今書きたい。
そのことに、やっと気が付いた。

「オレ書きたいねん。書けへんけど、書きたいねん。」
何度も繰り返すオレに、
「書いたらいいよ。初めからうまい人なんていないし、慣れないとできないこともあるし。」
と妻。

以前のオレなら、「慣れるっていつやねん!」と思っただろうし、
「書ける」になるまでの自分の文字を、誰かにもしも見られたらと思ったら、
それだけで、ぞっとして踏み出さなかっただろう。

でも、今は違う。
オレの字を見たら、笑う人はいるだろうし、それは以前と変わらない状況だ。
でも、今のオレは、それでオレのすべてではないことを知っている。
読めない・書けないという現実を抱えている自分を、
全否定せずに受け止められる。

「誰かに笑われるかも」という恐怖と、
「書きたい」という思い、
天秤にかければ、「書きたい」が自分には大事なんだとわかる。
以前なら、「書きたい」は天秤にのせることすらできなかっただろうに。

笑うヤツは笑えばいい。
オレは「書きたい」ねん。
そう思って、文房具売り場に行った。

憧れの、本当に、いったい何十年我慢していたのかと思うほど憧れの、
「ちょっといい手帳」がならんだコーナーで、
色や大きさ、形や紙の感じを確かめながら、
気に入った手帳を探し、見比べていった。
にやにやしてたと思う。
見てた人がいたら、気持ち悪かったかもしれない。
でも、口元が思わず緩んでしまうぐらい、嬉しかった。
「気に入った手帳を探す」作業が、本当に嬉しかった。
物を買う時に、あまり迷わないオレだが、
この時は、かなり時間をかけて考えた。
「これかな」「いや、こっちがいいか」と手帳を見比べる時間は、
幸せだった。


小学生の頃は、こんなオレでも新学期には新しいノートを買ってもらった。
でも、そのノートを使い終わることはなかった。
いつも数ページの悪さ書きの後は、真っ白なままだった。
中学の頃には、もうノートを買うことすらしなかったような気がする。


システム手帳が流行し始めたころ、
オレは社長業まっただ中だった。
同じ社長連中はもちろん、現場の若い子もみんなカッコイイ手帳を持っていた。
「誰よりもカッコイイ手帳」を買える金もあったし、
デッカイシステム手帳を開いて「○月○日の予定?あー、もう一杯やね」とやりたかった。
でも、そんなこと、望めばみじめになるだけだと知っていた。
人気のないところでこそこそ書いたとしても、もしそのノートを誰かに見られたら?
そんな怖いこと、考えたくもなかった。

「toraはなんでシステム手帳使わんの?」と聞かれれば、
「そんなんに書いてる暇ない。番頭に電話一本で会社には伝わるし、
オレは全部覚えてるから、その方が早いし」とうそぶいた。


表紙のついた、ちょっと厚手のノートと、少し高いペンを買っての帰路は、
子どものように胸がはずんだ。
「オレの手帳、これにオレは書くんだ」
最初のページに書いた言葉は、
「これからこのノートに、少しずつ書くれんしゅうをしていく」

ひらがなしかわからないところもあるだろうが、そのままでいい。
これが今のオレなんやし。
調べて時間をかけるより、とにかくちょっとずつでも書き続けてみようと思った。


最初のページを妻に見せて、
「見てみて、下手やろ?小学生以下やんなあ」と言うオレ。
でも、笑っていたと思うし、嫌な気分ではなかった。
「これしか書けない」「こんな風にしか書けない」自分だという現実は変わらないのに、
そのことよりも、
「手帳を持てた」「これからオレは書くんだ」というわくわくの方が大きかった。

妻はひらがなだらけのオレの手帳を見ても、笑うことはなかった。
「書けるように書いていけばいいんちゃう。
よく出てくるものは、だんだん書きなれていくし。
字が下手なことは、私も負けてないし」
と言った。

確かに、妻の字はオレから見ても下手だと思う。
「よくその字を人前で書いて恥ずかしくないな」と思うレベルだ。
書きなれているという点を除けば、オレより下手かもしれない。
そう言うと、彼女は、
「いや、恥ずかしいって。
だから極力書きたくないし、パソコンでできるものはそっちがいい。
そもそも自分で自分の書いた字が読めないし。
だから、正直、不思議なんよ。
学生時代と違って、今はパソコンが使えるんだし、
役所や銀行でどうしても手で書かないといけない時以外は、
パソコンを使った方が楽だと思うんだけど、
なんでそんなに手書きがしたいん?」


そんなん、理由なんてあるけ!!
わかっているようでも、「書ける」が当たり前のヤツには、やっぱりわからんのかな。


あのなあ、
「書ける」って当たり前なんやろ?
誰でもできることなんやろ?
難しいことを、
人より上手にできるようになりたいのとちゃうねん。
誰でもできることを、
オレもしたいねん。
それだけやねん。


オレも50前や。

社会人として、けっこういい年。
普通の社会人が、普通にできることができる自分になりたい。
そう思うことがそもそも、普通とちゃうんやろうけどな。


ずっと、それを望むこともアカンと思ってた。
「書きたい」と意識することは、とても惨めになること。
誰でもが簡単にできることができないオレ。
「でもオレ○○ができるし」
「オレの方がアイツよりかせいでるし」
「アイツにはこんなことできへんやろ」
いっぱいいっぱい、言い訳を連ねてきた。
でも、他のものでは満たされないものがあると、やっとわかった。


オレは「書きたい」
今は素直にそう思える。


お気に入りのカッコイイ手帳には、
オレの不恰好な文字が綴られている。
「もっときれいに書けたらいいのに」ともちろん思うが、
この字でも「書いている」ことそのものが嬉しい。

「もしこの手帳を誰かに見られたら?」
あれほど長い時間、怖くてたまらなかったはずの問い。
でも、今のオレなら
「見た?下手やろ?今練習中やねん」
と笑えると思う。