|
恐怖で支配することを知った〜中学時代 |
威嚇すれば誰にも傷つけられない
中学生は、4つの小学校が集まるマンモス校だった。1クラス43人18クラス、卒業するまで知らない顔もめずらしく無い!
中学にもなると、小学生の時のように、足が速い・面白いでは乗り切れない。読み書きなんて当たり前のことができなければ、格好のいじめの対象になってしまう。
幸いな事に、自分は同年代の体格より大きく、ずば抜けて運動も出来た。1年で160cm卒業前には174cmはあったと思う。
この体格が、読み書きの劣る自分を助けてくれる事になる。「アホやけど明るい面白い子」だった自分は、「ぐれた・切れやすい・不良」になっていった。
教師も友達も威嚇した。注意するものがいれば、切れて暴れた。非難の目を向けようものなら、イスを振り回し、机を投げ、怒鳴り散らしていた。何度か繰り返しているうちに、誰もオレにかまわなくなっていった。避けられる孤独?そんなことより、授業中人前で当てられなくなったこと、読まなくても書かなくてもよくなったことの解放感が強かった。「tora、ここを読んでみろ」とでも言われたら、小学校の時のように足を震わし掌に汗をかく必要はない。「あー?」と教師をにらみつけておけばいい。それでもだめなら机を思い切り蹴飛ばして出ていけばいい。
おりしも校内暴力が社会現象化していた時代。マンモス校ではそんなやつが何人もいた。暴れて出ていく自分に従うものもいた。今思えば悲しいことだが、自分にとっては小学校のころよりずっと快適な学校生活だった。
周囲がオレをわかってくれたわけではない。被害を受けないように「ほっとく」という選択をしただけだろう。それでも、そんな扱いでも「助かった」と感じた。黒板の前に出されて書けないのをわかっているのにチョークを持たされる屈辱。いつもは「tora君tora君」と慕ってくれる友達が、みんなと一緒にくすくすやっている絶望感。「こんなこともできない自分」を人前で思い知らされるよりずっとましだった。「どうせオレはアホやし」そう思っていた。
13、14歳の頃には人を殴ると、どれほど自分の手が痛いか、腫上がるかを知るほど喧嘩に明け暮れた。「拳が痛いすら」と、物を振り回し物で殴る。最低最悪の自分がいた。「殴るときはな、何か握っとくとええねん」「横腹を殴んねん。相手に動きがわかりにくいからよう当たる」「みぞおちはアカン。ボタンに当たると痛い」そんな話を自慢げにしていた。不良グループの中心的な存在、当然要注意人物。今思えば恥ずかしいが、アイロンパーマをかけてそりこみを入れ、とがったエナメルの靴にお決まりの刺しゅう入りの中ラン。タバコを学ランのポケットから取り出す、一目でわかる、わかりやすい不良だった。誰が見ても「コイツやばい」と思える。だから誰からも「書いてみい」と言われることはなくなった。
中学で出会ったのが陸上。きっかけは1年生の体育での「走り高跳び」。全く指導も無く、「ほれ、とんでみい」と言われる中、身長よりも10センチ高い175センチをかるがると跳び超えた。しかも見よう見真似の「背面跳び」。テレビで見たことがあったので、「たしかこんな感じと思うだけで体は動いた。周囲からは「うわぁ」「すげぇ」と感嘆の声が上がった。得意の体育とはいえ、これまでにない評価を受けた。認められた。嬉しくて子供の顔をしていたと思う。
この時の体育の先生は、大学を出たばかりのY先生。後に成人するまで、オレのことを気にかけてくれ、ずっと付き合いがあった。
Y先生のすすめもあり、陸上部に入った。でも先生は当時、女子部の監督だった。男子は嫌味なコーチで、当然、フィールド競技の跳躍がさせてもらえると思って入ったのに、待っていたのは中学生では中距離にあたる、400m800m1500mの練習。考えすぎかも知れないが、授業もまともに出ない反抗的なオレへの教師の報復のようにも感じられた。練習は辛い持久走的な事ばかり、部活をやめようか?と思っている時、悪知恵を授かることになる。
男子部のコーチを疎んじるやつは他にもいた。ヤツは気分で暴力をふるうことがあった。オレ達は署名活動を始めた。にらみをきかせ、すれ違う学校中の生徒たちに署名させた。オレに頼まれて、断るヤツはいなかった。大量の署名をもって校長室に向かう。
結果、男子担当のコーチはやめさせられることになった。
こんな事もあった。
部活の予算わけ、当然、部員が多いほうへ沢山お金が流れる。部員数の多い野球部は有利で一番少ない陸上部(男女合わせて7名)は不利。そこで、ここでも「にらみ」をきかせる。誰でも良かった、目の合う生徒に入部を勧め、嫌とは言わせない勢い、二日か三日で100名を超える。当然一番多くの予算が回ってきた。自分だけは手柄を立てたかの様な満足感でいっぱい(笑)
おどせばいい。怖がらせればみんないうことを聞く。大人だって怖くない。「オレは先生をやめさせたこともある」そんなことを自慢していた。
結局、陸上部は一番の大所帯になり、自分もフィールド競技の跳躍をするようになった。
Y先生は当時まだ現役で自分も跳んでいた。最先端の知識があったと思う。その指導を受けながら、自分の記録も見る見る伸びていった。2年生の頃には地区大会、大阪市、大阪府、近畿大会などは、のきなみ優勝、3年生の時に国体へ。少年Bの部で優勝した。華やかな成績、でも試合に出かけるたびに、問題ばかり起こしている自分に、Y先生は、相当な苦労をしていたと思う。試合中、緊張感で殺気立った選手達は、鋭い目つきになっていく。その眼光が自分に向けられていると勘違いして「なんか文句あるんか」と威嚇し喧嘩を売る。素行の悪さから試合に出場できない事もしばしばあった。陸連の役員に頭を下げるY先生をよく見かけた。
下校後の悪行もエスカレートしていく。一番記録の伸びていた中3の春、6m44cmの記録を出して期待された直後に街で喧嘩。生意気な自分をねらった集団に角材でぼこぼこに殴られた。なすすべなく頭だけを守ってうずくまった。利き足の右足を折られた。数か月、競技ができないことになる。Y先生の苦労は計り知れない。これ以上悪さをしないように先生の車で送り迎えしてもらうこともあった。けがをした自分が大会を見られるように、指導で手が離せない自分の代わりにと、Y先生のお父さんが送ってくれたこともあった。今思えば、ただただありがたい。そこまで見込んでもらい、大事にしてもらったのに、自分はそれに応えられたのか。否。隙を見ては街に繰り出し、問題を起こし続けた。
3年生にもなると受験があり、勉強が大半を占める学校生活になる。誰もが大きなストレスを抱える。恐怖で周囲を支配したつもりになっていた自分にも、矛先は向いてくる。オレの様に「読み書きの」劣る奴は、勉強のストレスに疲れた連中のターゲットになる。「アイツよりはまし」「あんなアホもおるし」「中学生で字が書かれへんってありえん」威嚇するオレへの反発もあったのだろう。目を合わせないようにしながらも嘲る連中を感じていた。もしかしたら、本当は誰もそこまで思ってなかったのかもしれない。でも、それまでの経験が「立派な大人になれないよ」と言った低学年の頃の友達の言葉が、「きっとあいつらそう思っているに違いない」「オレを笑っているに違いない」と自分を追い詰めていった。
オレはどんどん荒れていった。やくざの事務所にも出入りした。暴力事件も窃盗事件も起こした。警察のお世話になったのも一度や二度ではない。警察に迎えに来るのは、決まってY先生だった。一度、警察に迎えに来た母に殺されかけた事も有る、「お前を殺して、死んでやる!」と叫びながら手には刃物が握られていた。警察中を逃げ回った覚えがある。
それでも、自分を守るためには「威嚇するしかない」と確信していた。誰も助けてはくれないと。あの時代の自分を、反省はしているが、今でも当時、そうしないと、力で心のバランスを取らないと自分が保てなかったことも自覚している。
子供心ながら必死に戦っていたのだと思う。好きで不良と呼ばれていた訳ではない。これでも心の優しい少年だった。不良仲間には内緒で新聞配達をして、バイト代をおばあちゃんにわたしていた。自分への攻撃には敏感だったが、弱い者いじめをしたことはないつもりだ。むしろそんなことをするヤツは叩きのめしていた。正義の味方の気分だった。
でも、「ああそれは違うんやな。自分の都合のいい思い込みなんやな」と思い知らされる出来事があった。
普通に廊下を歩いていた。前からおとなしい同級生が歩いてきた。別にソイツになんの思い入れもなかった。反感を持っていたわけでもない。視野に入ってなかったともいえるかもしれない。ところがすれ違う瞬間に、ソイツが切れた。「うぅわぁあああ」と叫びながら襲いかかってきた。ただただ驚いた。場数を踏んでいたし、そんなへなちょこパンチ、当たるはずもなく、かわして「なにすんねん!」と反射的に怒鳴った。ヤツは傍目にもわかるほどがたがた震えていた。すーっと頭が冷えた。「コイツ、オレが怖いんや」とわかった。
目が合ったのかもしれない。ソイツからすると怖くてパニクっていたのかもしれない。どちらにしてもショックだった。オレはソイツを攻撃しようなんて考えたこともなかった。でも、オレという存在は、オレのしてきたことは、誰かをこんなに追い詰めるほどストレスを与えていたのかと、愕然とした。
周囲を威圧することで自分を守ったつもりだった。
ただオレは、バカにされたくない、これ以上傷つきたくないだけだった。
でも、そんなオレの行動に追い詰められていたヤツがいた。
オレはどうすればよかったんだ。
陸上で人もうらやむような成績を残しても、満たされることはなかった。その瞬間はいい気分になれても、「でもアイツアホやねんで」と誰かがささやいている気がしていた。
全国優勝したって、普段の授業の大半は読み書き。教科書を開くことも、ノートを机に出すこともない自分。虚勢をはっているが、「本当はできないから」0点の自分。
学校にいる限り、そこから逃げることはできない。早く社会に出たかった。とにかく読み書きから逃げたかった。
真剣にオレの将来や進路を考えてくれていたのは、Y先生だけだったと思う。陸上の成績で高校の誘いはたくさん来た。「ここなら勉強せんでええし、陸上強いから」先生に勧められるまま、陸上の特待生で高校に進むことになった。
|
|
|
|