「書けない」が「書けそうだ」へ変わっていった道程
「読む」が「オレなり」なら、当然「書く」も「オレなり」だ。
「書く」は、「読む」以上に苦しい。
だって「読む」は間違っていても、声に出さない限りバレない。
「延髄」を「セキズイ」と読んでいたって、「ここやろ」と正しい場所をさせる。
でも「書く」は違う。
「書く」こと自体が、必ず目に触れる出力だ。
おまけに「書く」のは、書いておく必要があるからで、
つまり後で読めないと、そもそも書いた意味がない。
正しく覚えきらないオレの「書く」字は間違いだらけだ。
おまけにとても下手で、我ながら読めたものではない。
多少の間違いがあっても、きれいな文字なら「これ違うけどこうやな」と読めるのかもしれない。
下手な字でも、正しく書けていれば、わざと崩したみたいで大人っぽくてカッコイイかもしれない。
でもオレにはそのどちらもなかった。
学校時代は簡単だ。
対策は、「書かない」これでオワリ。
書かなければ間違うこともないし、下手な字を笑われることもない。
だからオレは、徹底的に書かなかった。
手先の器用さには自信があるし、
絵も、模写ならそこそこ描けたと思う。(自分で考えて描くのは超苦手)
だから、もしかして「書かない」以外の方法を知っていたら、オレは書けるようになったのかもしれないと、ぼんやり思う。
でも、それはいまさら言っても仕方のないこと。
ぎこちない線を、妖しい記憶を頼りに、膨大な時間をかけて書く。
それがオレの「書き」だ。
「書かない」でオワリにできた学校時代とは対照的に、
働き始めたオレに「書かない」という選択肢は与えられなかった。
最初に努めた居酒屋、
日々の仕事で「書く」場面はいやおうなく出てくる。
現場にいるときは、「覚える」でしのいだ。
値段を覚える、メニューを覚える、注文を覚える。
ちょっとメモできれば難なくクリアできることを、
それができないオレは、いつも神経をとがらせて覚えまくった。
「toraはすげぇなあ」と言われたこともあった。
違う、違う。
書けないから必死やったんや。
オレ、反射神経と瞬発力には自信がある。
メシ時の殺人的に忙しい店の中では、チンタラ書いてるヤツらより、
オレの方がずっと役に立っていた。
ところが伝票や注文書、領収書になってくると話は別だ。
「勝ち負けの勝に部屋の部で『勝部』」なんて言われても、
そもそも例に出された言葉の漢字が浮かばない。
はいはい、あんなやつだったなとぼんやり浮かんでも、
それでは書けない。
「講習会行って来い」修行中の身には、そんな指示もよくとんだ。
ずらりと並んで講師の話を聞きながらノートをとる。
まずこの形がムリ。
聞きながら見ながら書くなんて、まずできない。
まして、自分の書いた文字を人に見られるのなんて耐えられない。
オレはいつも最後尾に陣取った。
一番後ろなら、書いている「フリ」をしてればバレない。
そんな姿は、格好のいじめのターゲットになった。
耐えられずに飛び出して、次に飛び込んだ建築の世界。
現場なら読み書きできなくても腕一本でやっていける、そう信じていたが、実はそこは居酒屋以上に「書く」ことが必要な場所だった。
だって、現場は常に「数字」が飛びかっていた。
そしてそれが正確でないと、大変なことになる場所なのだ。
現場と言ったって、オレのような軽天屋もいれば電気屋も水道屋も設備屋もクロス屋もいる。
みんなが仕事を分担して、設計図通りに仕上げていくわけだから、
「決められた場所に、決められた形・大きさで」
というのは大前提だ。
おまけに、しょっちゅう変更がある。
多くの場合、書いたものを一応もらいはするが、そこに書き込んでいくことは絶対に必要な手順なのだ。
どうしたか。
オレは記号化して書くようになった。
例えば「階段」なら段々の絵、という具合だ。
そうすると、そのメモを見たら場面が浮かぶ。
場面が浮かんで絵文字のような記号と数字。
「ああ、これはあそこの軒の寸法やったな」とわかる。
もちろん、きれいには書けない。
他の人は、見てもなんのことかわからないだろう。
見つかって「なんやこれ?」と言われるのが嫌で、
用事が終わればすぐにちぎって捨てた。
紙をびりびりにちぎりながら、自分が情けなくなってくる。
こんなちょっとしたメモすら、オレは満足に取れない。
なんとか自分にだけはわかるように書けても、それは文字ではないと思っていた。
だから、たまらなく恥ずかしかった。
そんなオレが出会ったのがワープロだった。
あれは20代前半の頃だったか。
当時出たばかりのワープロは、2行くらいの表示しかできないものだったが、30万円近くした。
独立したばかりの自分には、かなり高額な買い物だったが、
たまらなく欲しくて、現金をにぎりしめて電気屋に走った。
「これで書ける!!」なんどもそうくり返した。
実際のところ、出たばかりのワープロは機能も少なく、
リボンをセットしたりと色々と手間もかかった。
正直、周囲の人間に、
「おい、これ書いとけ!」と命令する方が、遥かにラクでスムーズだっただろう。
それでもオレはワープロを使い続けた。
手間がかかっても、時間がかかっても、
仕上がりがきれいなことに、心底満足していた。
機械の力を借りたとはいえ、「オレが書いた」という満足感は大きい。
今の時代のように、誰もが機械を使いこなせたわけではない。
「ワープロで書いた」こと自体、「すごい」と称賛の対象になった。
オレが。
誰にも読めないメモしか書けないオレが、
「すごい」と言われるものが書ける。
どんなに誇らしかったことか。
それからどんどんワープロの機能は高まっていき、
オレは常に最新機種を購入し続けた。
98年にパソコンを買う前には、
表を作り手紙を書き、仕事の指示表を作り、
振込用紙の記入欄を細かく設定して正確に打ち込めるまでになった。
記入欄の設定は、膨大に手間のかかる作業だった。
でも、振込用紙を持って郵便局や銀行でどきどきしながら書くことを思えば、
自分の書いた文字を、窓口の子が見て笑うんじゃないかといらいらした日々を思えば、
そんな手間は問題にならなかった。
オレの字を人に見られるくらいなら、
読めないメモをいらいらと共に破り捨てるぐらいなら、
途方もない手間をかけても、きれいなワープロ打ちの文字がよかった。
パソコンを手に入れて、オレの「書く」ことへのハードルはまた一つ下がった。
パソコンは、ワープロとは比べ物にならない機能があった。
インターネットだ。
わからないことはいつでも調べられた。
文章のテンプレートも豊富だ。
「直子の代筆」を見つけた時は、「これや!!」と叫んだ。
コピペ、なんてすばらしい機能だ!!
ワープロ時代は、お手本を見ながら一文字ずつ打っていった。
オレのように書きなれてない人間でも、遥かに手書きが早いだろうと確信できるぐらい時間がかかった。
それがコピペなら一瞬だ!!
すばらしく整った文章が、一瞬で出来上がる。
相手と自分の名前だけ直せば、どこに出しても恥ずかしくない書類がいくらでもできた。
「直子の代筆」でコピペの素晴らしさをしったオレは、
当時自分がよく使う言葉や文章をネットやそれまでに作った文章からコピペしまくったファイルまで作った。
さしずめ「toraの代筆」とでもいったところか。
このファイルさえあれば、オレは無敵だと思った。
思いついてから数日間、コピペをしまくった。
画期的だと興奮したアイディアだったが、
結局は作っただけで実際に使うことはほとんどなかった。
「直子の代筆」は、いくつか項目を入力すれば文章にしてくれるが、
「toraの代筆」はとにかくコピペしただけなので、探せない。
結局、あの興奮はなんだったのかと思う状態でお蔵入りした。
それでも、ワープロがくれた「整った文字」という魅力に、
パソコンは「スピード」をつけてくれた。
相変わらず「その場で手書き」は著しく困難だったが、
「明日書いてきます」は、言えた。
ただ、「この文章はオレの立場と年齢と相手との関係の中で正しいのか」と不安になることは多かった。
丁寧語?尊敬語?謙譲語?
ナニソレ?
でも、いい大人やから「なんか失礼になったらダメ」という気はある。
パソコンが教えてくれる文章をコピペしながら、
「これでええんかな?ええよな?」と自問する日は続いた。
携帯電話は、20代前半から持っていた。
当時は鞄ほどもあった巨大な電話を肩から下げて、電話をしまくった。
書けない分、電話が武器だった。
そんな前から携帯を持っていたが、メール機能を使い始めたのは、
ブログを書くようになる少し前だったと思う。
2006年の終わりあたり、今から5年前くらいだ。
小さい携帯電話でメールなんて、周囲がどんなにやっていても考えれなかった。
でも、実は携帯電話にはパソコンよりオレの「書き」を劇的に支えてくれる機能があった。
「予測変換」だ。
パソコンもできるけど、意味が全く違う。
例えば、パソコンで「行きました」と出そうと思うと、
「行きました」と打って変換キーを押さないといけない。
ところが携帯だと、「い」を打った時点で予測変換が始まる。
よく使う言葉だと、一番上にすぐ出てくる。
「こんにちは。続いてお世話になっています。toraです。」に、
「こ・つ・t」だけしか探さなくていいなんて、ざらだ。
文章を打つのに慣れている人なら、それでもパソコンが早いのかもしれない。
でも、オレにはこの形態の予測変換が、強烈に役に立った。
コピペ以来の衝撃だ!
日常的に短いメールを送ることに、どんどん抵抗がなくなっていった。
たくさんの技術に支えられ、オレは「機械を使いこなす」ことで「書ける」を手に入れていった。
本当に嬉しいし、こんな便利なもの、もっと早く作ってくれよと、心から思う。
でも、技術が進んですべてが解決したのかと言うと、そうでもない。
手書きしないといけない場面は、今のところなくならない。
銀行で役所でお店のカウンターで、
やはり求められるのは「手書き」だ。
以前はそれがたまらなく嫌だった。
誰もがオレの姿を見て笑っていると感じた。
手元を隠して書いても、窓口では見られる。
「この字、何て書いてあります?」なんて聞かれたら、オレはどうしたらいいねん。
調べればいいと言われたって、なかなか割り切れるもんじゃなかった。
自分がディスレクシアだと知って、
調べてもいいんだと思えるようになって、
ずいぶん気持ちは楽になったが、電子辞書を持ち歩くのは、なんだかやりすぎの感じがして抵抗があった。
そんな時に出会ったのがスマートフォンだ。
2010年に手に入れて以降、オレの宝物だ!
なんたって、指で広げるだけで拡大して表示ができる!
調べやすい上に、その動作は「最新でっせ」とアピールしてるかのようで、カッコイイ。
カッコイイは大事だ。
だって、オレはずっと笑われてきた。
みんなができることができないオレは、めっちゃカッコワルイ。
カッコワルイオレを見せたくなくて、見たくなくて、
オレは暴れてたのかもしれない。
カッコイイ方法があれば、オレはもっと頑張れたと思う。
スマートフォンを使いこなして調べてるオレ。
それって全然みじめな姿じゃない!!
ワープロやパソコンが、オレにきれいな文字をくれた。
携帯電話は、文章を書くことのサポートをしてくれた。
スマートフォンは、調べる方法を与えてくれた。
これって機械のおかげなんかな?
機械がかしこいからできるってことなんかな?
もちろんそれもあるだろうけど、使いこなしているのは「オレ」だ。
これって「オレが書けるようになった」でいいんちゃうん?
パソコンが賢いから書けるというなら、
音声入力でいいはずや。
でもなあ、音声入力がものすごく精度が上がっても、
オレ、それだと書けないと思う。
パソコンの前に座って、携帯の画面とにらめっこしながら、
打ちながら考えて考えて、文章が出来上がる。
オレは機械を使いこなして、「書けるようになった」
パソコンも携帯も、オレが「書く」ためには「眼鏡のように必要」なんや。
眼鏡がものを見ないように、パソコンも文字を書かない。
オレが考え、オレが選び、オレが書いている。
そう言ってええやろ?
まだまだスムーズではないし、
ちゃんとた文章を書こうと思うと、あいかわらずものすごく時間がかかるけど、
「オレは書ける」
これってすごいことやと思うで。
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